荘子 斉物論 を読む

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こんにちは!

 

以下の4冊を頼りに荘子を読んでいきます。

福永光司 荘子 内篇 (講談社学術文庫)

金谷治 荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

池田知久荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

蔡志忠 マンガ 老荘の思想 (講談社+α文庫)
 (マンガ老荘の思想の該当部分は青字で示します)

 

今回は、斉物論を読みます。

ご参考になれば幸いです。

 

 

荘子そうじ 内篇ないへん

斉物論せいぶつろん

南郭子綦(師匠)と顏成子游(弟子)の問答

喪我(忘我)

南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,
嗒焉似喪其耦。

顏成子游立侍乎前,
曰:
「何居乎?形固可使如槁木,
而心固可使如死灰乎?
今之隱几者,非昔之隱几者也。」

子綦曰:
「偃,不亦善乎而問之也!
今者吾喪我,汝知之乎?
女聞人籟而未聞地籟,
女聞地籟而未聞天籟夫!」

大意 顏成子游(弟子)が、南郭子綦(師匠)に、「身体は枯れ木、心は灰のように見えますが、どうかされましたか?」と言った。南郭子綦(師)は、「よく気が付いた。私は自分の存在を忘れていたようだ。」と言い、「天籟を聞いたことがあるか?」と尋ねた。

地籟

子游曰:
「敢問其方。」

子綦曰:
「夫大塊噫氣,其名為風。
是唯无作,作則萬竅怒呺。
而獨不聞之翏翏乎?

山林之畏佳,大木百圍之竅穴,
似鼻,似口,似耳,
似枅,似圈,似臼,似洼者,似污者;
激者,謞者,叱者,吸者,
叫者,譹者,宎者,咬者,

前者唱于而隨者唱喁。

泠風則小和,飄風則大和,
厲風濟則眾竅為虛。
而獨不見之調調、之刁刁乎?」

大意 子游「そのことを教えてほしいです。」  子綦「大地が息を吐き出すと風が起こり、いたるところで音がする。風が過ぎると元に戻る。君も聞いたことがあるだろう?」

天籟

子游曰:
「地籟則眾竅是已,人籟則比竹是已。
敢問天籟。」

子綦曰:
「夫吹萬不同,而使其自己也,
咸其自取,怒者其誰邪!」

大意 子游「地籟や人籟は分かりましたが、天籟について教えてほしいです。」
 子綦「地籟は地籟として、人籟は人籟として聞くことが、そのまま天籟なんだよ。」

 

 

人間世界の万籟

大知閑閑,小知閒閒;
大言炎炎,小言詹詹。
其寐也魂交,其覺也形開,
與接為構,日以心鬭。
縵者,窖者,密者。
小恐惴惴,大恐縵縵。

其發若機栝,其司是非之謂也;
其留如詛盟,其守勝之謂也;
其殺如秋冬,以言其日消也;
其溺之所為之,不可使復之也;
其厭也如緘,以言其老洫也;
近死之心,莫使復陽也。

大意 人間の「知」と「言」が いきつくところは、小さな恐れは びくびく、大きな恐れは呆然と、の どちらかだ。
人間の心の有り様が日に日に衰えていく姿を元のように蘇らせることはできない。

 

喜怒哀樂,慮嘆變慹,姚佚啟態;
樂出虛,蒸成菌。
日夜相代乎前,而莫知其所萌。
已乎已乎!
旦暮得此,其所由以生乎!

非彼無我,非我無所取。
是亦近矣,而不知其所為使。
若有真宰,而特不得其眹。
可行已信,而不見其形,有情而無形。

百骸、九竅、六藏,賅而存焉,
吾誰與為親?汝皆說之乎?其有私焉?
如是皆有,為臣妾乎,
其臣妾不足以相治乎。
其遞相為君臣乎,其有真君存焉。
如求得其情與不得,無益損乎其真。

大意 人間が生きるとは喜怒哀楽そのものなのだが、それがどこから来るものかは誰も分からない。 心の変化が どうして起こるのか分からない。 真宰(絶対者)がいるようであるが、形は見えない。 人間の身体に真宰(絶対者)がいるのだろうが、その実情がわかろうとわかるまいと、何の変化もない。

 

<成形>

一受其成形,不亡以待盡。
與物相刃相靡,其行盡如馳,而莫之能止,
不亦悲乎!

終身役役而不見其成功,
苶然疲役而不知其所歸,
可不哀邪!

人謂之不死,奚益?
其形化,其心與之然,可不謂大哀乎?
人之生也,固若是芒乎!
其我獨芒,而人亦有不芒者乎!

大意 人としての形を受けたからには、自然に従い穏やかに命の尽きるのを待とう。しかし人間は「自然」を全うすることができず、争うことをやめない。

 

<成心>

夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎?
奚必知代而心自取者有之?

愚者與有焉。
未成乎心而有是非,
是今日適越而昔至也。

是以無有為有。

無有為有,雖有神禹,且不能知,
吾獨且柰何哉!

大意 成心に従わずに是非の論議などをする。 なんと、愚かなことか。

 

 

rei ここまでが、「自然世界の万籟の響き」と「人間世界の万籟」について語られています。

 

 

絶対の知恵「明」

是非

夫言非吹也。
言者有言,其所言者特未定也。
果有言邪?其未嘗有言邪?
其以為異於鷇音,亦有辯乎,其無辯乎?
道惡乎隱而有真偽?言惡乎隱而有是非?
道惡乎往而不存?言惡乎存而不可?
道隱於小成,言隱於榮華。

故有儒、墨之是非,以是其所非,
而非其所是。
欲是其所非而非其所是,則莫若以明。

大意 言葉には、すべて意味がある。 あらゆる場所にある「道」は、「言」によって、是非の対立を生じる。「儒墨の是非」など無意味だ。 ものを言うと 善し悪しの判断が現れるが、そういうことは 真の「明(絶対の知恵)」を用いることにはならない。

道枢

物無非彼,物無非是。
自彼則不見,自知則知之。
故曰:
彼出於是,是亦因彼。
彼是,方生之說也。

雖然,方生方死,方死方生;
方可方不可,方不可方可;
因是因非,因非因是。
是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。
是亦彼也,彼亦是也。
彼亦一是非,此亦一是非。
果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?
彼是莫得其偶,謂之道樞。
樞始得其環中,以應無窮。
是亦一無窮,非亦一無窮也。
故曰「莫若以明」。

大意 「これ」と「あれ」を区別するが、恵施はそれを相対的な概念だと主張している。 しかし、聖人は是も非も一切をひとつにし、自然の「明」に身をゆだねるのだ。「明」を用いるというのは、そういうことである。それを「環中の道枢(万物斉同の実在の真相)」という。

指と馬

以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;
以馬喻馬之非馬,不若以非馬喻馬之非馬也。
天地,一指也;萬物,一馬也。
可乎可,不可乎不可。
道行之而成,物謂之而然。
惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。
物固有所然,物固有所可。
無物不然,無物不可。

大意 指と馬 の詭弁があるが、「環中の道枢」の立場からみれば、天地も一本の指であり、万物も一頭の馬なのだ。 「環中の道枢」の世界では、一切が 可であり不可であり、然でもあり不然でもあるのだ。

 

美しいものと醜いもの

故為是舉莛與楹,厲與西施,
恢恑憰怪,道通為一。
其分也,成也;其成也,毀也。
凡物無成與毀,復通為一。
唯達者知通為一,為是不用而寓諸庸。
庸也者,用也;用也者,通也;
通也者,得也。適得而幾矣。
因是已。已而不知其然,謂之道。

大意 美人の西施とそうでない人を照らし合わせたとしても、それはひとつのものなのである。
自然に身を任せ それさえ意識しなくなった境地こそ、「道」というのである。

朝三暮四

勞神明為一,而不知其同也,謂之朝三。
何謂朝三?曰狙公賦芧,
曰:
「朝三而莫四。」眾狙皆怒。
曰:
「然則朝四而莫三。」
眾狙皆悅。名實未虧,而喜怒為用,亦因是也。
是以聖人和之以是非,而休乎天鈞,是之謂兩行。

大意 同じことなのに、同じだということを知らないことを「朝三」という。
猿たちは茅の実(とちのみ)を「朝3つ夕方4つあげる」と言ったら怒り、「朝4つ夕方3つあげる」と言ったら喜んだ。表現も実質も変わらないのに、喜びと怒りの感情が生じた。
聖人(絶対者)は、是非を調和させて自然のバランスに安住する。これを「天鈞」「両行」という。

rei この荘子の寓話(朝三暮四)は、世俗の学者先生たちの愚かさをいったものだったが、現在は「同じ表現を変えてごまかす。甘言で人を愚弄する。」という意味に使われている。と 福永先生は仰っています。

成と虧

古之人,其知有所至矣。
惡乎至?
有以為未始有物者,至矣盡矣,不可以加矣。
其次以為有物矣,而未始有封也。
其次以為有封焉,而未始有是非也。
是非之彰也,道之所以虧也。
道之所以虧,愛之所以成。
果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?

大意 「成(よろこび)」でもなく「虧(かなしみ)」でもなく ひとつであるのに、それを喜んだり悲しんだりすることに意味はない。

 

昭文と師曠と恵施

有成與虧,故昭氏之鼓琴也;
無成與虧,故昭氏之不鼓琴也。
昭文之鼓琴也,
師曠之枝策也,
惠子之據梧也,三子之知幾乎!
皆其盛者也,故載之末年。
唯其好之也,以異於彼,
其好之也,欲以明之彼。
非所明而明之,故以堅白之昧終。
而其子又以文之綸終,終身無成。
若是而可謂成乎,雖我亦成也。
若是而不可謂成乎,物與我無成也。

是故滑疑之耀,聖人之所圖也。
為是不用而寓諸庸,此之謂以明。

大意 昭文(琴の名手)と師曠(音楽の名手)と恵施(論理学者)は、それぞれ偉大であった。しかし、生涯 完成することはできなかった。 「道」の前では、ほとんど無に等しい。聖人は、自分の判断を働かせないで自然なままに任せるのだ。それを真の「明」を用いるという。

 

 

「言」と「道」について

無から有

今且有言於此,不知其與是類乎?
其與是不類乎?
類與不類,相與為類,則與彼無以異矣。
雖然,請嘗言之。

有始也者,有未始有始也者,
有未始有夫未始有始也者。
有有也者,有無也者,
有未始有無也者,有未始有夫未始有無也者。
俄而有無矣,而未知有無之果孰有孰無也。
今我則已有謂矣,
而未知吾所謂之其果有謂乎,其果無謂乎?

大意 試みに語ろう。 有無の対立というものがあるが、どちらが有でどちらが無なのかは分からない。

 

天下莫大於秋豪之末,而大山為小;
莫壽乎殤子,而彭祖為夭。
天地與我並生,而萬物與我為一。
既已為一矣,且得有言乎?
既已謂之一矣,且得無言乎?
一與言為二,二與一為三。
自此以往,巧歷不能得,而況其凡乎!
故自無適有,以至於三,而況自有適有乎!
無適焉,因是已。

大意 天地と私、万物と私は、ひとつになっている。対立を数えだすとキリがない。数えることをしないで、ひたすら体験そのものの世界に身を任せるのがよい。無から有へゆくことは止めよう。

有から有

夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也。
請言其畛:
有左,有右,有倫,有義,
有分,有辯,有競,有爭,
此之謂八德。

六合之外,聖人存而不論;
六合之內,聖人論而不議。
春秋經世,先王之志,聖人議而不辯。
故分也者,有不分也;辯也者,有不辯也。
曰:
何也?聖人懷之,眾人辯之以相示也。
故曰:
辯也者,有不見也。

大意 もともと「道」も「言」も分別をもたないのであるが、概念的に認識されると、左右・論議・分弁・競争の八徳がある。聖人(絶対者)は、分別をすることなく存在に任せ、他人の見せ物などにはしない。

 

夫大道不稱,大辯不言,大仁不仁,
大廉不嗛,大勇不忮。
道昭而不道,言辯而不及,仁常而不成,
廉清而不信,勇忮而不成。
五者园而幾向方矣。

大意 「道」「弁」「仁」「廉」「勇」は、本来 丸いものであるが、角があるものになることを内有している。

 

 

絶対者の知恵

<葆光>

故知止其所不知,至矣。
孰知不言之辯,不道之道?
若有能知,此之謂天府。
注焉而不滿,酌焉而不竭,
而不知其所由來,此之謂葆光。

大意 知は分からないところで止まっているのが最高で、それは「葆光(絶対の知恵)」なのだ。

 

<葆光の偉大さ>

堯と舜の問答

故昔者堯問於舜曰:
「我欲伐宗、膾、胥敖,南面而不釋然。
其故何也?」
舜曰:
「夫三子者,猶存乎蓬艾之間。
若不釋然,何哉?
昔者十日並出,萬物皆照,
而況德之進乎日者乎!」

大意 堯が舜に「宗と膾と胥敖を討伐したいのだが 気が進まないのは何故か?」と問うた。 舜は「太陽より優れた徳をお持ちの貴方様なら討伐など考えなくても良いのです。」と、答えた。

rei  ここまでが、荘子の主張です。

ここから先は、4つの説話を使って、具体的に説明しています。

 

4つの説話

王倪と齧缺の問答 

知と不知

齧缺問乎王倪曰:
「子知物之所同是乎?」
曰:
「吾惡乎知之!」「子知子之所不知邪?」
曰:
「吾惡乎知之!」「然則物無知邪?」
曰:
「吾惡乎知之!雖然,嘗試言之。
庸詎知吾所謂知之非不知邪?
庸詎知吾所謂不知之非知邪?
且吾嘗試問乎女:
民溼寢則腰疾偏死,鰌然乎哉?
木處則惴慄恂懼,猨猴然乎哉?
三者孰知正處?
民食芻豢,麋鹿食薦,蝍且甘帶,鴟鴉耆鼠,
四者孰知正味?
猨,猵狙以為雌,麋與鹿交,鰌與魚游。
毛嬙、麗姬,人之所美也,魚見之深入,
鳥見之高飛,麋鹿見之決驟。
四者孰知天下之正色哉?
自我觀之,仁義之端,是非之塗,
樊然殽亂,吾惡能知其辯!」

大意 齧缺が王倪に「先生は、「道」がいかなるものか お分かりですか?」と尋ねた。
王倪は「何もわからない。」と答えた。王倪は「試しにそれについて話をしよう。」「知っているは知らない。知らないは知っている。のかもしれない。」と言った。「君に尋ねてみよう。
鰌(どじょう)は湿地に居ても病気にならない。猿は木の上に居ても怖がらない。人間と鰌と猿、三者は本当の居場所を知っているか?
人間は牛や豚を食べ、鹿は草を食べ、鳶や烏は鼠を食べる。四者は本当の味を知っているのか?
人が美人だと思っても、魚や鳥や鹿は逃げる。どれが本当の美しさを知っているのか?私には、絶対的なものなど分からない。」

 

利害

齧缺曰:
「子不知利害,則至人固不知利害乎?」
王倪曰:
「至人神矣:大澤焚而不能熱,
河、漢沍而不能寒,
疾雷破山、風振海而不能驚。
若然者,乘雲氣,騎日月,而遊乎四海之外。
死生无變於己,而況利害之端乎!」

大意 齧缺が「絶対者は、利害を知らないのですか?」と尋ねた。王倪は「絶対者というものは、どんなことがあっても心を乱さない。 絶対者は、利害などというものは初めから念頭にないのだ。」と答えた。

 

瞿鵲子と長梧子の問答 ー是非の融和ー

孔子が言ったこと

瞿鵲子問乎長梧子曰:
「吾聞諸夫子,聖人不從事於務,
不就利,不違害,不喜求,不緣道,
无謂有謂,有謂无謂,而遊乎塵垢之外。
夫子以為孟浪之言,而我以為妙道之行也。
吾子以為奚若?」
長梧子曰:
「是黃帝之所聽熒也,而丘也何足以知之!
且女亦大早計,
見卵而求時夜,見彈而求鴞炙。
予嘗為女妄言之,女以妄聽之,奚?
旁日月,挾宇宙,為其脗合,置其滑涽,
以隸相尊。
眾人役役,聖人愚芚,參萬歲而一成純。
萬物盡然,而以是相蘊。
予惡乎知說生之非惑邪!
予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!

大意 瞿鵲子(孔子の弟子)が 長梧子(得道者)に「私の師(孔子)は、絶対者は俗塵の外で遊ぶといいます。そして師は絶対者を否定します。あなたは、どう考えますか?」と尋ねた。長梧子は「試みに話をしよう。 絶対者には、万物が全てなのだ。あるがままにあるという立場なんだ。 孔子ごときにはわからないだろうな。世俗の人間は生を悦び、死を憎悪するが、それは故郷を忘れた者の悲劇のようなものだ。

麗姫の涙

麗之姬,艾封人之子也。
晉國之始得之也,涕泣沾襟;
及其至於王所,與王同筐床,食芻豢,
而後悔其泣也。
予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎!

大意 昔、麗姫という役人の娘が 晋の国へ連れていかれた。 泣いていたのに、柔らかい布団で寝たり 美食を口にしりするようになって、泣いたことを後悔したという。
生死の変化もこれと同じなのかもしれない。

長梧子の夢

夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。
方其夢也,不知其夢也。
夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。
且有大覺而後知此其大夢也,
而愚者自以為覺,竊竊然知之。
君乎,牧乎,固哉!
丘也,與女皆夢也;
予謂女夢,亦夢也。
是其言也,其名為弔詭。
萬世之後,而一遇大聖知其解者,
是旦暮遇之也。

大意 夢をみている最中は夢と分からず、目が覚めてはじめてそれが夢であったことに気づく。人間の一生もこれと同じなのかもしれない。孔子も君も私も、夢をみているのだ。この言葉を「弔詭」というが、この謎を解くことができるものは、ほとんどいないだろう。

 

是非の対立

既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,
若果是也?我果非也邪?
我勝若,若不吾勝,
我果是也?而果非也邪?
其或是也,其或非也邪?
其俱是也,其俱非也邪?
我與若不能相知也,則人固受其黮闇。
吾誰使正之?

使同乎若者正之,既與若同矣,惡能正之!
使同乎我者正之,既同乎我矣,惡能正之!
使異乎我與若者正之,
既異乎我與若矣,惡能正之!
使同乎我與若者正之,
既同乎我與若矣,惡能正之!

然則我與若與人俱不能相知也,而待彼也邪?

化聲之相待,若其不相待。
和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。

謂和之以天倪?
曰:
是不是,然不然。
是若果是也,則是之異乎不是也亦無辯;
然若果然也,則然之異乎不然也亦無辯。
忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟。」

大意 もうすこし話そう。 仮に君と私が是非を論議したとして、その論議の勝敗と、そのことの是非は必ずしも一致しなしい。しかも、正しいか間違っていかなども分からない。 第三者の判定を待ったところで、それは不可能なこと。誰も判定などすることはできない。

対立する是非の論議は、相対的なものである限り、初めから存在しないのと同じなのだ。
天寿をまっとうするために、絶対者は年齢を忘れ義理を忘れて 無限の世界に身をおくのだ。」

 

罔兩と景の問答 ー人間の主体性ー

罔兩問景曰:
「曩子行,今子止,曩子坐,今子起,
何其無特操與?」
景曰:
「吾有待而然者邪!吾所待又有待而然者邪!
吾待蛇蚹、蜩翼邪!
惡識所以然?惡識所以不然?」

大意 「薄い影」が「影」に「ふらふらしないで、しっかりしてくれよ。」と言った。「影」は「依存しているものが何なのか分からない。根源の存在が分からないからなんだよ。」と答えた。

荘周 夢に胡蝶となる(胡蝶の夢) ー物化ー

昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與!不知周也。
俄然覺,則蘧蘧然周也。
不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?
周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。

大意 荘周(荘子)は夢の中で蝶になった。目覚めて荘周は、荘周なのか蝶なのか真実が分からない。でも、荘周と蝶は同じではない。両者の間には違いがある。これを物化という。

斉物論は、ここまでです。

長かったですね… ふう~~~

rei  福永先生は「斉物論では、逍遥遊で語られた絶対者、その絶対者の生活を成り立たせる論理、人間がいかにして絶対者になり得るのかの実践的根拠を明らかにしている。万物がみなひとつである一の世界を明らかにしている。」と、仰っています。

ご参考になれば幸いです。

 

ありがとうございました。

 

参考書

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