荘子 養生主 を読む

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こんにちは!

 

以下の4冊を頼りに荘子を読んでいきます。

福永光司 荘子 内篇 (講談社学術文庫)

金谷治 荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

池田知久荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

蔡志忠 マンガ 老荘の思想 (講談社+α文庫)
 (マンガ老荘の思想の該当部分は青字で示します)

 

今回は、養生主 を読みます。

ご参考になれば幸いです。

 

 

荘子そうじ 内篇ないへん

養生主ようせいしゅ

養生主の根本原理

吾生也有涯,而知也无涯。
以有涯隨无涯,殆已;
已而為知者,殆而已矣。
為善无近名,為惡无近刑。
緣督以為經,
可以保身,可以全生,可以養親,可以盡年。

大意 有限の生を養うためには、知や欲に振り回されることなく善悪にとらわれない無心の境地に立つことだ。そうすると、安全で無事に自分の肉体を養うことができ、長生きできるであろう。

 

 

庖丁解牛 (庖丁 と 文恵君 の問答)

庖丁為文惠君解牛,
手之所觸,肩之所倚,足之所履,膝之所踦,
砉然嚮然,奏刀騞然,莫不中音。
合於《桑林》之舞,乃中《經首》之會。

大意 庖丁ほうてい(料理人の丁)が文恵君のために牛を料理した。その様子は とてもリズミカルであった。

現在 料理に使う庖丁ほうちょうの語源は、庖丁ほうていさん なんだそうです。

 

文惠君曰:
「譆!善哉!技蓋至此乎?」

庖丁釋刀對曰:
「臣之所好者道也,進乎技矣。
始臣之解牛之時,所見无非牛者。
三年之後,未嘗見全牛也。
方今之時,臣以神遇,
而不以目視,官知止而神欲行。
依乎天理,批大郤,導大窾,因其固然。
技經肯綮之未嘗,而況大軱乎!

大意 文恵君は「すばらしい技だね。」と言った。  庖丁は「私は技ではなく道を求めています。料理を始めて3年経つと 牛の姿形が気にならなくなりました。精神を牛に向けるようになりました。「天理」に従って牛刀をふるい、牛の体のしくみに従います。

 

良庖歲更刀,割也;
族庖月更刀,折也。
今臣之刀十九年矣,所解數千牛矣,
而刀刃若新發於硎。

彼節者有間,而刀刃者无厚,以无厚入有間,
恢恢乎其於遊刃必有餘地矣,
是以十九年而刀刃若新發於硎。

大意 腕の良い料理人は一年くらいで刃こぼれをおこします。普通の料理人は一ヶ月ごとに取り換え、牛刀を折ってしまいます。 私といえば19年間に数千もの牛を料理しましたが、刃は研いだばかりのようです。 牛の骨節の隙間に厚みのない刃を入れるので、ゆとりがあります。ですから刃が痛みません。

 

雖然,每至於族,吾見其難為,
怵然為戒,視為止,行為遲。
動刀甚微,謋然已解,如土委地。
提刀而立,為之四顧,為之躊躇滿志,
善刀而藏之。」

文惠君曰:
「善哉!吾聞庖丁之言,得養生焉。」

大意 しかし、かたまったところには 心を集中させ、ゆっくりと刃を動かします。 肉が離れると、土の塊が もとの大地に落ちた時のようです。私は牛刀を持って立ちあがり四方を見渡して満足して牛刀をサヤに収めます。」と言った。  文恵君は「すばらしい! 私は養生の道を会得したよ。」と言った。

 

rei 複雑なものに、がむしゃらに取り組んでもだめ。自然に身を任せれば、生を全うできる。 それから、福永先生が仰っていますが、鍛錬することによって得られる無心の境地が無為でもある。と言っているのですね。

 

真の自由と幸福 (公文軒 と 右師 の問答)

公文軒見右師而驚曰:
「是何人也?惡乎介也?天與,其人與?」

曰:
「天也,非人也。
天之生是使獨也,人之貌有與也。
以是知其天也,非人也。」

澤雉十步一啄,百步一飲,不蘄畜乎樊中。
神雖王,不善也。

大意 公文軒が右師を見て驚いて「一本足だなんて何ていうことだ。それは天のせいなのか?人のせいなのか?」と言った。  右師は「天のせいだよ。人の姿形は人力ではどうにもならないんだよ。」と言った。    沢辺のきじはエサや水を見つけるのが大変だが、籠の中で養われることは望まない。心楽しくないからね。

 

 

生と死(老子の弟子 と 秦失 の問答)

老聃死,秦失弔之,三號而出。

弟子曰:
「非夫子之友邪?」

曰:
「然。」「然則弔焉若此,可乎?」

曰:
「然。始也,吾以為其人也,而今非也。
向吾入而弔焉,
有老者哭之,如哭其子;
少者哭之,如哭其母。

彼其所以會之,必有不蘄言而言,
不蘄哭而哭者。
是遁天倍情,忘其所受,古者謂之遁天之刑

適來,夫子時也;適去,夫子順也。
安時而處順,哀樂不能入也,
古者謂是帝之縣解。」

指窮於為薪,火傳也,不知其盡也。

大意 老聃ろうたんが死んだ。秦失しんしつは弔いに行って、三度 号泣して退出した。 老聃の門人が「え?それだけですか?」と言った。 秦失は「そうだよ。以前は友人だったが今は違う。 さきほど弔った時、老人は子を亡くしたように泣き、若者は母を亡くしたように泣いていた。彼らは老聃の教えに従わずに泣いているのだろう。実情に背き本分を忘れている。これを昔の人は「遁天の刑」といった。  師とは偶々出会って、偶々この世を去ったのだよ。道理に従っただけなんだ。自然の道理に従えば、悲しみも喜びもないんだよ。これを昔の人は「帝の縣解」といった。」と言った。    薪を燃やすことができなくても、火は尽きることなく燃え続くんだ。

rei 最後の文、肉体は有限であっても 生命そのものは不滅だと言っているんですね。

 

養生主は、ここまでです。

ご参考になれば幸いです。

 

ありがとうございました。

 

参考書

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